- 2021-2-10
- 高論卓説
日本は、いまだ出口の見えない新型コロナウイルス禍に苦しんでいる。世界も試行錯誤を繰り返していることは事実だが、それでも先進国の中で、一番後れをとっているのが日本であると言ってもいい。ワクチンの供給を海外に依存していることが、その象徴である。新型コロナという危機への向き合い方があまりにお粗末だと言わざるを得ない。(細川珠生)
その根本原因は、日本が長年、課題と認識しておきながら、先送りしてきたことにある。教育分野には、それがいくつも重なり、いまだ子供たちに多大な影響を与えている。
例えば、オンライン教育に代表される教育のICT(情報通信技術)化の遅れ、1学級の児童・生徒数の多さ、授業時数の多さや、一発テストでの合否判断や点数至上主義による入試の在り方などが、コロナ禍で改めて日本の教育の問題として再認識された。
これら長年の課題を改善する機会となればよいが、学校現場は、日々の感染防止対策や、学習の継続に必死であり、現場レベルでの工夫や努力には限界がある。これらの問題を解決するためには、「とりあえずの対応」でコロナが過ぎ去るのを待つのではなく、日本の教育の目的やあり方を、世界を見回した上で根本的に見直し、できることから、すぐにでも取り組んでいくべきである。その点、小学校の35人学級への移行は、コロナがもたらした数少ない効果であった。
「ワクチン後進国」であるということも、ようやく着目されるようになったが、遅きに失した。私個人は、2年前、長男の米国留学を前に、学校から接種を義務付けられたワクチンの多さに驚愕(きょうがく)した。州によって違いはあるが、日本では子供が接種することのない髄膜炎、B型肝炎や、乳幼児のころに接種したワクチンでも、10年以上経過していると再度の接種が必要となるもの、いわゆる三種混合と呼ばれる「百日咳・ジフテリア・破傷風」も、国内産とは配分に違いがあるため、海外産のものを接種しなければならないなど、海外のワクチンに対する考え方の違いに直面した。
日本との違いは何か、その当時も日米の関係者に話を聞いたが、多民族を前提とした海外と、そうではない日本との違いや製薬・創薬が国の基幹産業の一つになっているのかどうかという違いがあった。(ワクチンにより)防げるものは防ぐという危機管理ともいえる意識の違いもあった。ちなみに、日本では積極的な接種の推奨をストップしている子宮頸がんワクチンも、米国では女子だけではなく男子にも接種が勧められている。
日本も、特定技能者や高度人材の外国人の訪日や、インバウンド政策を推進してきたが、その前提は、米国のようなワクチン接種への考え方がセットでなければならないはずである。一方、そのためには、「ゼロリスク」という非現実主義からの脱却も必要である。ワクチンだけでなく、あらゆることに、リスクは必ず伴う。しかし、そこをどう乗り越えていくか、そのために、国も社会も、あるいは一人一人が、何をどう考えていくかということで、社会は進歩し、その先によりよい社会があると信じて進んでいくと思わなくてはならない。
つまり、日本は、課題を認識していながら放置をしてきたということであれば、「進歩」をも放棄するということである。政府のコロナ対策は決してうまくいっているとは言い難いが、その前に、私たち一人一人の考え方も、今一度振り返ってみる必要がある。