「憲法を考える」

細川隆元著「隆元の1984年」山手書房

(P108~P116 第二部「二十世紀の日本から何を学ぶかーその功と罪を問う」『明治・大正・昭和三代の政治を検証する』より)

私はこれまでただの一度も、役所の俸禄を食んだことがない。衆議院議員一期の経験はあるが、行政、司法と立法府は別だ。選挙管理委員会からもらったのは、一枚の辞令ではなくして、一枚の当選証書だけだった。
私が他人に誇れるものがあるとすれば、この体内に八十四年間も流れつづいている反骨の血である。とはいっても、野人・隆元、例外がある。それは、ただ一度、政府の辞令を手にしたことがある。
それは昭和三十二年八月に発足した内閣の憲法調査会の委員になったことだ。言論界代表として学識経験者の資格で、委員になった。
憲法調査会の委員になったからといって、私の心の中の反権力、反骨の血が変色、変心したことにはならなかった。
なぜなら、政治の源泉を成すものは、憲法だからだ。国家は憲法に拠って立ち、基本法の憲法を国政運用の規範としているからだ。私は、東大法学部で憲法を、あの天皇機関説で議会を追われた美濃部達吉先生の学んだ。そして、その応用学である政治史を、先にふれたように吉野先生から教えられた。
さらに、国際公法、つまり比較憲法学を、これまた野村淳治先生に習った。社会に出ては政治記者だったのだから、憲法とは切っても切れない関係であった。しかも、政治記者のあとは、憲法による政治を運用する国会議員となった。そのあと、政治評論家として政治の在り方を、国民に向かって説いたのだからこれまた、無縁どころか不可欠の関係だったのだ。
だから、この憲法調査会委員は、私にとってまたとない適役の最たるものだった。このような気構えだから、私は、すっかりこの調査会に没頭、のめりこんでしまった。
憲法調査会委員としての、私の審議、調査テーマは、憲法制定経過小委員会の委員長として、新憲法―いまの日本国憲法の制定の経過の解明に挑戦することである。この調査会には三十九年夏の細川小委員長の報告書を公表するまで、実に七年間も真剣に取り組んだ。
この憲法調査会は、ただ単に憲法のすべてをハダカにしようという学術研究が目的ではなかった。憲法調査会の設置が決まったのは、昭和三十一年六月だった。このときの首相は、私が朝日の記者時代、親子のように親しくしていた文相、内閣書記官長をやった鳩山一郎氏だった。鳩山政権下の自民党は「自主憲法制定」を政治目標にしていたので、当然、この調査会は「憲法改正」のための調査会であり、改正のための調査、研究だった。
もちろん、私が委員の一人となって発足した当時は、岸信介政権であった。岸氏も改憲を政治公約に掲げていたので、この調査会は憲法調査会というよりも、「改憲調査会」としたほうが、その目的にピッタリだった。だから選ばれた委員五十人、全員は改憲を承知で調査会に参加していた。かくいう私も改憲推進の立場から、改憲のレールを敷き、改憲の条項、改憲案を摘出しやすい条件づくり、できれば「日本国憲法改正細川私案」をつくる意気込みで加わった。
しかし、現実には、いまだに改憲の声は政界からも言論界からもあまり聞こえてこない。われわれの真意は、二十一世紀の日本が国内的にも国際的にも、独立国としてふさわしい憲法を持つべきである、という真摯な考えのもとに研究・調査したものである。当時の政治的背景を熟知していただけば、その真意がよく理解してもらえるはずだ。
昭和二十七年に独立した日本は、政界で、自民、民主両保守党が保守合同し、単一保守党の「自民党」が誕生した。前後して、左、右に分裂していた社会党が、復縁・統一して「日本社会党」となった。
この当時の自民党の選挙の目標は、全議席の三分の二を獲得することだった。逆に社会党や革新・野党の目的は全議席の三分の一以上の獲得だった。自民党の目指す三分の二は憲法改正を国会が発議し、国民の審判を問うための必要議席数だからだ。逆に社会党・野党にすれば、三分の一を確保することは、即、改憲阻止勢力を守ることだから、当時の選挙は丁々発止、まさに血を血で洗う激烈な闘いだった。
ところが、最近の国政選挙は、変質してしまった。自民党は政権獲得、維持のための安定多数―衆院二百六十二議席、参院百五十一議席―だ。いまでは改憲をスローガンにし公約にすることは、該当で宣伝カーで会見を叫んでいる右翼陣営と混同される。これを嫌って、自民党はダンマリを決めこんでいる。
だいたい自民党は自主憲法制定を政策・鋼領に定めているのに、同党内の自主憲法制定推進議員連盟への参加を渋っている議員がいるのだからしようがない。党紀を破って、なにが自民党の国会議員か、と問いたい。
私の参加のきっかけは変わっていた。岸政権の官房長官だった石田博英君から「お願いがある」といってきた。近く発足する憲法調査会の会長に元文相で、広島大学長の森戸辰男氏をあてたいので、元社会党議員で友人の私に、森戸氏を口説いてくれ、というものだった。二つ返事で承諾し広島に飛んだ私の説得に、森戸氏の回答はノーだった。
国立大学の学長として森戸氏は全教職員に対し「中立」のため各種の調査会、委員会の参加を禁止していたのだ。学長自らが、その禁を破ることはできなかったのだ。いや、もっともな理由である。石田君には森戸氏の意思を伝え、説得不成功を恥じた。ところが、会長不在で発足した憲法調査会に、私も参加してほしいということで発令された。同じ政治記者出身の石田君が、森戸氏かつぎ出しの不首尾の引責として私の参加を決めたものらしい。
発足当初、五十人の委員のうち、現役の政治家は首相の中曽根康弘君、自民党の憲法調査会長の稲葉修君の二人だけ。小坂善太郎君は落選し田中伊三次君は引退。熱心な改憲論者だった愛知揆一、木村篤太郎、郡祐一、芦田均、荒木万寿夫氏らは鬼籍に入ってしまった。自民党、政界に改憲の声を期待するのは木に拠って魚を求めることかー。

七か年余もの長い間、私の情熱をかき立てた憲法は、もちろん新憲法であり、マッカーサー憲法と呼ばれた。どうも、最近はマッカーサー憲法という呼び方も耳にしなくなったので、あるいは〝死語〞となったのかもしれん・・・。
しかし、少なくともわれわれ調査会の委員は、このマ憲法は「押し付け憲法」と理解した。大日本帝国憲法からいまの新憲法への改正は、日本側の草案を国会、枢密院で審議、可決したものではない。日本側案は、マッカーサー司令部のお気に召すものでなかった。
そこでしびれを切らしたマッカーサーが、二十一年二月十三日にマ草案を、ときの幣原内閣に手交した。ここから、日本側とマ司令部との間の交渉がはじまった。この交渉にあたったのは、マ司令官が改正を依頼した近衛文麿氏でも、憲法改正担当大臣の松本烝治氏でもなかった。すでに二人の試案はマッカーサーから蹴られていたから、二人はその役を降り、交渉には法制局部長の佐藤達夫君があたっていたのだ。
われわれの調査によると、このマ草案に、まず、二つの問題点があった。それは、国会が一院制を取る。カリフォルニアより小さな国が、貴族院、衆議院の二院制をとることはぜいたくだというのがその理由だ。この一院制に対し日本側が英国を手本とし、長い間の慣習となった二院制を主張、マ司令部もこれを認め、ついに二院制に譲歩した。
これで、日本の国会はいまの参院と衆院の二院制となったわけだ。しかし、いまから考えたなら、マ草案のとおり衆院だけの一院制だけの方が日本にとってベストだったのではないか。
その理由は、まず参院が衆院のコピー化したことだ。とくに三十年代まであった緑風会が消滅してからは政党化が進み、現在では衆院以上に政党化が進んだ。そして、その選挙方法が全国区の直接選挙から、比例代表制に変更し、間接的選挙となってからはその政党化は余計、ひどくなってしまった。
こで、参院の衆院に対するチェック機能が完全に失われた。政党化によって、自民党は各省庁の高級官僚、野党は労組役員OB、中道政党は大学教授などを立てて争い、これに芸能タレントが加わった。
これじゃまるで「元老院」か「芸能院」だ。
なにが〝良識の府・参議院〞だ。そんな参院はもう死んじまったんだ。こんな参院はもういらん、廃院にしちゃえ、だ。だが参院を廃止するには改憲が必要だ。現職議員や各党が、既得権を主張して廃院に踏み切るわけがない。ならば、せめてその権限と図体を小さく制限すべきだ。
それで、法案の是非、問題点がはっきりする。さらには、参議院議員の大臣就任禁止だ。参院のミニ衆院化の弊害の原因は大臣を出すことにある。この大臣採用禁止によって、参院は少しでも、良識の府に近づけることになる。これらは、いずれも改憲を要せずして実現できることだ。
議員一人あたりの経費がいま議員歳費千五百万円を含め、一人約五千万円もかかるので、百人から百五十人の減員で、年間五十億円から七十五億円の節減になる。行政改革に相当する国会改革第一弾だ。
ついでに、国会改革を提言したい。
それは、衆院でも議員を減員することだ。議員一人あたりの議員定数が人口のアンバランスで、人口過密区と過疎区との格差はひどくなり、最高裁が昨年十一月に「違憲状態。国会はただちに是正すべし」の判決を出した。中曽根首相も各党との合意で是正をする意向を表明している。
だが、自民党案の内容に失望した。いまの定数五百十一人を減員しないで、増・減をやりくりしようというのだ。市町村など地方議会が自ら、議員定数削減を実施しているのに、国会が減員にホオッかむりとは解せない。少なくとも、五十年の増員前の四百七十一人に戻すべきだ。
これらも、もちろん改憲はしなくてもできる。公選法の別表改正で済むことになる。できれば、いまの中選挙区制をこの際、小選挙区制に改め、政党法による完全公営選挙で、金のかからない理想選挙を推進すべきだ。

「第一条と第九条をめぐって」(P116~P125)

日本国憲法が、目の敵にされたり邪魔者扱いにされたりしているのは、第一条と第九条の存在からだ。憲法調査会の調査、論議もこの二か条に集中した。この二か条の存在によって、いまの憲法は世の批判の強風にさらされている。
また、国民も政党も、保守か革新かの判別をする〝踏み絵〞的な存在にもなっている。日本国民と政府、政党は戦後三十数年、この二か条に振り回されてきたともいえる。
まず、第一条とは天皇の地位の規定だ。いまの第一条は天皇を「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」と規定している。「象徴・天皇」は、ここにその源を発しているのだ。マ草案のなかで、天皇の地位は「天皇は国家の元首の地位(at the head of the state)にある・・・・」とされていた。
しかし、マ司令部の起草者のなかから「元首というよりも、イギリスのキングと同じ扱いにしよう」ということで「天皇は君臨(reign)する」としよう、という意見が出た。だがこの意見はオジャンになった。イギリスのキング・クイーンは「君臨すれど統治せず」とされている。日本で「君臨」すると「天皇が統治(govern)する」とされる。
天皇が統治することになったなら大変だ。せっかく、第一章で天皇の政治への介入を排しようという意図が、帳消しになるからだ。そこで出てきたのが、イギリスの「Westminster Statute(条令)」の前文に「Crown(国王)はイギリス連合(Commonwealth)所属国の自由連合の象徴であり・・・」という文句がある。ここから拝借してできたのがシンボルー象徴なのである。
そこで、昔もいまも議論のマトになっているのが、この「象徴・天皇」をめぐって、「いったい、天皇は元首なのか、元首でないのか、どっちだ」という議論だ。
もちろん、憲法調査会でも「天皇を元首とすべきだ。だから条文ではっきり明記すべし」という意見もあった。また「外国は現実に天皇を元首として扱っている。いまさら明文化しなくても・・・」という反論もあり、正に百花争鳴だった。調査会でも元首派と象徴派の意見は対立したまま、結論はつかなかった。
しかし、私としては、あえて天皇を元首として「臣・隆元」とする必要はないと考えている。まさに天皇はわれわれ国民統合のシンボルー象徴として、国民とともに歩み、国民とともに苦楽を分かち合ってほしいものだ。
だが、将来は、このようなあいまいさは許されなくなるおそれがある。国民の間に、天皇制に対する考えの変化が発しない、という保証がないからだ。いわゆる「象徴・天皇」世代のいまは別だが、近い将来、必ず天皇論議が起こってくることになる。そのときの世代のためにも、天皇の地位―第一条の明確化は必要となってくるハズだ。明治、大正、昭和の三代を生きつづけてきた私としては、そんな時代の訪れは絶対に望まないのだが・・・。

われわれ、日本国民は憲法に対して特殊な感情を持っている。それは、日本民族がはじめてもった憲法―大日本帝国憲法が、天皇の憲法だったからだ。「欽定憲法」、「不磨の大典」、「金科玉条」などの別称が通用していたこともあって「改正しない」のが憲法、という先入観があった。
だが、こんな固定観念を吹っ飛ばしているのが、第九条である。第九条は、いわずとしれた問題の「戦争放棄」だ。また、マ草案だが、それには「国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は紛争解決のための手段としての戦争及び自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない」
ずばりいって、このマ草案の最大のポイントは、「自衛権、自衛戦争の放棄」であった。注意してほしいのは、この文章のなかで、「日本陸海空軍」「日本軍」という文言があることだ。
マ司令官としては、あの昭和十六年十二月七日(八日)の真珠湾奇襲をきっかけとした第二次大戦で、米軍、とくにマ軍を散々苦しめたのは日本軍だ。占領行政がはじまってまだ半年そこそこ、三年有余の敵軍・日本軍に対する憎しみ、恐怖は、完全に日本軍を解体したとはいっても、まだ去っていない。こんな対日本軍感情が、このマ草案の下敷き、背骨となっていたことを忘れては、このマ草案の行間にかくされている意図は読めない。
このマ草案は、結果的には次のような第九条に変わっていた。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを、これを認めない」
日本側とマ司令部との憲法案交渉では、日本側の修正案や要求はほとんど蹴っ飛ばされた。だが、そのなかでたった一つの例外があった。それは、傍点をつけた「前項の・・・・」の第二項が加わったことだ。これは、のちに首相となった衆議院議員・芦田均氏の提案だったのだ。
芦田氏の意図は、いまはもう分らないが、「国際紛争としての戦争」はいっさい認められない、しかし、「自衛のための武装」は違憲とならないーという見方が定説だ。ここで、もう一回、注意を喚起したい。マ草案では「自衛のための武装もダメ」だった。それがいまの第九条では変化した。
だが、あいまいモコとしていることには変わりはない。あの自衛隊の生みの親・吉田茂首相でさえ、国会では第九条を「自衛のための武装も禁止している」と〝解読〞、答弁したほどだ。その違憲解釈の苦しい、いいのがれのために「戦力なき軍隊」と自衛隊をいいくるめた詭弁を弄したこともあった。
芦田案が採用されて「自衛隊」は認められたはずなのに、いまだに第九条と自衛隊の関係で「違憲」論争が残っているのは、やはりこのあいまいあさが原因だ。
だから、社会党委員長の石橋政嗣君のように「違憲だが、合法」という、変テコリンな借り物の自衛隊論が飛び出すことになっているのだ。
石橋君など、野党の諸君は、まさにこの第九条を中心とする憲法を「金科玉条」視し、護憲、改憲阻止をバカの一つおぼえのように絶叫しつづけている。だが、国会で、この憲法案に反対したのは社会党、共産党だった。共産党の野坂参三書記長などは「独立国で、自分の国を守るための軍備を持たないことを規定した憲法がありうるか」と反対論をぶち上げた。いまの彼等の主張とは大違い。いつから憲法観を入れ替えたのだろうか。
改憲論者はこのときの野坂参三論を、そっくり主張すれば、より理解されるのではないか。
問題の憲法第九条には〝秘話〞がかくされている。いや〝悲願〞がこめられているといい換えたほうが適切かもしれない。
いまだに学者や政治家の間で第九条論争で尾を引いているのが、「戦争放棄」は、マ司令官からの押しつけなのか、それとも、ときの幣原喜重郎首相の意図からでたのかーという点だ。
憲法調査会で、私が小委員長だった憲法制定経過調査小委員会での調査でも、この点が解明できなかった。残念ながら、これがはっきりしないから、いまだに学者、政治家諸君は「押し付け派」と「申し出派」に分かれ、不毛の論争をしている結果となっているわけだ。
第九条に〝悲願〞がこめられているのは、この論説に関連しての、独自の〝隆元解釈論〞によるものだ。しかし、これは、独断と偏見では決してない。むしろ、今日までほとんど明らかにされない〝秘話〞であることを読者諸賢に強調したい。
マ司令部と日本政府の間で憲法改正の動きが急を帯びたのは、昭和二十一年一月二十四日、幣原首相がマ元帥を訪問したのがきっかけである。幣原首相の訪問の目的は三つあった。その一つは、前年暮れ急性肺炎にかかった幣原首相に、マ元帥が、魔術的な特効薬・ペニシリンを贈ってくれ、全快したお礼だった。
あとの二つはこの年の一月一日、天皇陛下が「人間宣言」をし、神格化を否定した報告と、問題の憲法改正だった。この二つが同時だったことに私はとくに注目した。
幣原首相は、マ元帥に対して「憲法改正についてはぜひとも戦争を否定し、平和主義に立つ憲法をつくりたい」と、その心境を述べた。マ元帥もこれには全面的に賛成だった。だがこのなかでマ元帥は一つの疑問を呈したようだ。「日本だけが非戦的憲法をつくっても世界に通用するのか」-だった。
それから約一か月後の二月二十二日、幣原は、戦争放棄を中心とする第九条のある憲法のマ草案を、閣議で報告した。「これ以外に日本の憲法はない。閣僚諸君はぜひ賛成してほしい」。幣原首相が声涙ともにくだる採用を諮ったのに、全閣僚は声もなかった。まるで、それはお通夜のようだった。
なぜ、このとき幣原首相の瞼に涙が光ったか。
このころ、日本の占領はGHQ、マ司令部が中心となっていたが、その上には第二次大戦で日本軍と交戦した連合国が、極東委員会をつくって、マ司令部に〝君臨〞していた。形式的には日本の占領政策は、この極東委員会から発せられている。この極東委員会の占領行政の最大の問題は、天皇陛下の戦争責任にどのような処断をくだすかだった。もっとも強硬だったのは、日本との不可侵条約を犯して参戦したソ連、それに次ぐのは、オーストラリア、ニュージーランドなど太平洋諸国で、こぞって天皇制の廃止を主張した。
さらには、天皇を東京裁判にかけることを唱えていた国もある。もっとも尖鋭なのは天皇の抹殺論であった。天皇制は連合国の極東委員会では風前の灯だった。
しかし、日本国民の多くはポツダム宣言を受諾、無条件降伏となっても、いわゆる国体護持―天皇制の存続が悲願だった。日本政府、とくに幣原首相は、この国体護持、天皇制の存続、さらには天皇の助命が、その仕事の最大なものだった。
幣原首相がマ元帥を訪問したとき、その胸中に「日本が戦争を放棄することによって、日本国民の願いである天皇制を認めてくれるのでは・・・」という期待がなかった、といえばウソになるのではないか。
閣議での幣原首相の涙は、戦争放棄をマ元帥に申し入れた、その結果が、天皇陛下と天皇制を護り切ったーそんな感傷が幣原首相の心を襲ったーと解釈する以外に、あの涙の真意は分からないのである。老首相の胸中、切なるものがあったのだ。
大日本帝国憲法を制定したときの初代首相・伊藤博文は「憲法はみだりに粉淆(ふんこう)すべからず」と改正論議さえ戒めていた。だが、私からいえば「改憲を大いに粉淆し、公論に決すべし」と、提言したい。

ページ上部へ戻る