憲法枠内の自衛隊海外派遣

「市政」2001年11月号所収

(一)
去る九月二十七日、第百五十三回臨時国会が開かれた。小泉首相は、所信表明の中でニューヨークで突発した同時多発テロ事件に触れ、ブッシュ米大統領の報復戦争に、日本は同盟国として憲法の枠内において全面的に協力すると述べた。自由民主主義を価値観とする日本としては当然のことであろう。問題は、憲法の枠内においてという条件である。イギリス、フランス、ドイツ、イタリア等EU(欧州連合)諸国は、米国の協力要請に即刻応じた。憲法の枠内においてなどという条件はない。日本だけ条件付きである。日本は変な国である。
そもそもそのはず、五十六年前に日本は戦争に負けて連合国に占領された。その時、占領軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥から与えられたのが現行憲法である。勝者米国が敗者日本に授けた憲法で、敗者日本は恭しくこれを受け入れたのである。
日本は昭和二十七年、独立国になった時、この憲法を改めなければならなかったのである。そのため、日本民主党の三木武吉、岸信介、日本自由党の緒方竹虎、石井光次郎氏らは、自主憲法制定を目標にして保守合同を推進した。昭和三十年秋、自由民主党が結成され、保守政党の合同が出来上がった。初代総裁に鳩山一郎が就任した。この政党の大きな目的は独立国にふさわしい憲法の制定であった。鳩山、岸総理総裁は自主憲法の制定に熱心であったが、昭和三十五年七月に総理総裁になった池田勇人氏以降は自主憲法制定に全く関心を持たず、経済発展にのみ専心した。そのため、自主憲法の制定は神棚に上げられたまま、保守合同以降四十六年の歳月が無駄に過ごされて今日に至っている。
憲法上から見ると、日本はいまだに被占領国家なのである。要するに一人前ではないのである。日米安保条約を見れば分かるように、国の防衛を米国に依存している。こんな国は世界にない。自分の国は自分で守る。この当然のことが憲法上、自衛隊法上できない。ドイツは占領解除と同時に自主憲法に踏み切り、真の独立国となった。日本はいまだ独立国とは言えない。だからテロ報復戦争に対して米国に協力するとは言いながら、憲法の枠内でという条件を付けざるを得ないのである。これは、全くおかしなことだ。

(二)
今問題になっているのは自衛隊の海外派遣である。小泉首相は、前線でドンパチやる所には自衛隊を行かせない。難民救助、あるいは負傷者の介護のための医療派遣には自衛隊を出すというが、難民や野戦病院の向こうにはそれを追ってくる敵がいるはずだ。日本の自衛隊は、これらの人々を敵から守らなければならない。敵が撃ってくる時に、応戦するのは当然である。次から次へと敵が攻めてきたらどうするのか。憲法第九条には国際紛争を解決する手段として武力は用いないと書いてあるが、どんどん敵が攻めてきた時に撃たないで済むだろうか。相手を圧倒せん滅しなければ難民はどうなる。野戦病院はどうなる。ちょっと考えれば分かることだ。携帯する武器に制限を与えてよいものであろうか。弾丸はどのくらい持たせるのだろうか。戦いは前線も後方もないのである。
また、戦場では他国の軍隊とも連携しなければならない。危ないからといって日本の自衛隊だけ隠れたり、逃げたりできないだろう。しかし、今の法律では逃げろという解釈もできる。国際的信用を失うのが関の山だ。

(三)
自衛隊の扱いは諸外国から見れば珍妙なものだ。
仏のシラク大統領はブッシュ米大統領に対し、米仏共同作戦をやる場合には参謀本部には必ず仏の軍人を参加させよと注文を付けた。日本では考えられないことである。価値観を共有するのならば、そのくらいのことは当たり前である。これを集団的自衛権というのである。ところが日本の歴代内閣は、国際法上集団的自衛権は持っているが、憲法上そうした行動はいけないという。全くおかしなことだ。
日本の政治家はのど元過ぎれば熱さ忘れるので、いつ終わるか分からないが、報復戦争が終わってしまうと、自主権法の制定も自衛隊法などの改正も忘れてしまうだろう。

(四)
国会で舌足らずの議論をしている間に、日本経済はどんどん悪化している。十月初旬の日銀短観によると、それがよく分かる。テロ事件と不良債権の処理などによって企業の状況は一層悪くなり、失業者数も増えつつある。一体、当面の景気回復はどうなるのであろう。見通しがさっぱり付かない。米国指導の報復戦争も先の見通しが今のところ分からない。もしテロ事件がなければ、来年、再来年の今ころは多少の景気回復の兆しも見えてきただろうが、テロ事件によって米国の景気回復の兆しも分からなくなってきた。まさに、日本はお先真っ暗だが、今のところ、内外政策の処理は小泉首相に任せればよい。

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