憲法改正は不可能か

「産業新潮」2004年2月号所収

 昨年来、憲法改正の必要性が議論される空気になってきた。中曽根康弘元首相や民主党の鳩山由紀夫氏らは、かねてから、憲法の不備を直すべきであると発言している。もっともなことだと思うが、憲法改正を、こころよく思わない人々もまだ存在していることも事実である。現憲法は、マッカーサー元帥から与えられたものである。独立国として、何かと不備な点が多い。戦後五十九年も経ったのであるから、日本人の手による、日本人のための憲法に改めることは当然のことである。
現憲法は、昭和二十一年二月十三日に、占領軍から手渡されてものである。時の首相は、幣原喜重郎氏であった。同首相は、昭和二十年の暮れ、風邪を引いて寝込んだ。周囲の人々は、肺炎になることを恐れていたが、特効薬があるではなし、ただ、おろおろするばかりであった。それを聞いたマッカーサー軍司令官は幣原邸に使いを出し、今では誰でも知っている〝ペニシリン〞というクスリを渡した。首相はこのクスリを使用したおかげで肺炎にならず、風邪は回復した。翌年一月のある日、肺炎にならずに回復したお礼を述べるために、幣原首相は、マッカーサー元帥を訪ねた。場所は日比谷交差点角にある第一生命ビルであった。軍司令部は、当時、そこにあったのである。両者は、戦争の悲惨さをお互いに述べ合い、再び、あのようなことは繰り返すべきではないという意見で一致した。後日、マ元帥は、幣原首相との間で語り合った一部を憲法草案担当の司令部の軍人たちに述べたという。それが、いわゆる「戦争放棄」の条項。つまり、第九条は、そうした経緯から生まれたらしい。
第九条は、なにかと誤解を招く点が多い。自衛戦争まで放棄しなければいけないのか、いや、自衛戦争は許されるのか等、くだらない議論が第九条を巡っておこなわれた。結局、自衛権はある、ということに落ち着いたが、集団的自衛権はあるけれども、それを行使することはいけないという、おかしな解釈論が今でも続いている。おかしなことといえば、現憲法にはいたるところに矛盾がある。
基本的人権は第十一条で、「与えられたものとする」と書いてあるが九十七条では「信託されたもの」とある。与えられたものと信託されたものでは、大違いである。六十五条には「行政権は内閣に属する」とある。六十六条によると、「内閣は国会に対して、連帯して責任をとる」とある。いわゆる、連帯責任制をうたっている。首相も他の閣僚も、連帯して責任をとるということは、首相が他の大臣の首を勝手に切ることはできないということでなければならない。首相と他の閣僚は、一緒に責任をとるということが、連帯責任制である。しかるに、六十八条によると、首相は、「任意に国務大臣を罷免することができる」とある。勝手気ままに大臣の首が切れるということだ。首相は、他の閣僚とともに責任をとると言いながら、勝手に首を切れるということの間には矛盾があり、おかしい。連合軍の中の一部の人、しかも、憲法、法律と何かということについて、無知な人がこの憲法をつくったのである。
まだ、おかしな点がたくさんある。前文に目を転じてみると、どう考えても事実関係として間違っていることがある。この憲法は、前文の冒頭で、衆参両院で審議可決されたようにかいてあるが、事実は、衆議院と貴族院の審議を経て、可決成立したものである。参議院は、いまだ存在していなかった。参議院は、昭和二十二年五月にできたのであるから、国民から選ばれた議員たちによってできたものであるということは、事実に反することである。なぜそういうことになったのかといえば、マッカーサー元帥がソ連邦、その他の国々を納得させるために、日本人の総意として、この憲法がつくられたことを了承させるためであった。
前文冒頭の表現は、嘘である。憲法の前文に事実誤認、率直にいって嘘があっていいのだろうか。新聞記者の記事も嘘があってはならない。いわんや、憲法においておや。
前文をもう少し読んでいくと「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とあるが、これは、向こう三軒両隣の国々をなんでもよいから信頼して、生きていけということである。文句は言ってはいけない。これは、日本は独立国ではないということを世界に宣言しているようなことである。独立心を持ってはいけないということである。他の個所にいくら立派なことが書いてあったとしても、この一点は、見逃すことのできない間違いである。だから、北朝鮮による拉致事件が起こるのである。首相が靖国参拝をすると、中国、韓国などがワイワイ言うが、それに反論してはいけないということなのである。日本人は半世紀以上にわたって、独立心を放棄して生きてきたのである。その根拠は、ここにある。
しかるに、民主党などは、論憲と称し、議論することはよいが、独立国としての憲法をつくることには反対であるという。旧社会党の流れをくむ、社民党などは、現憲法改正に反対、つまり、独立心を持つことに反対なのである。それでよいのだろうか。
天皇を第一条によって、「象徴」としている。「象徴」とは何かと問われた当時の金森徳次郎大臣は、「象徴」とは「憧れ」と説明していた。「憧れ」とは何か。私は新聞記者のころ、その議論を聞いたが、何がなんだかわからなかった。考えてみると、日本には、国家元首がいないのである。〝首無し国家〞でよいのであるか。それは、おかしい。他の国には元首が存在している。憲法上、天皇を国家元首と決めることが当然である。昭和天皇がお亡くなりになった時、百カ国以上の国から、国家元首がみえたでないか。外国人は天皇を国家元首とみているのである。日本人だけが、日本の天皇を国家元首とみていない。まったくおかしな話である。
終戦直後の二十年から三十年は明治生まれの代議士が多かった。そういう、気骨ある人々でも、この憲法を改正することができなかった。当時の代議士たちに憲法改正の気概はなく、占領軍のやり方にペコペコしていた。米国をはじめとする戦勝国の人たちは、日本を一段低く見て、属国視していた。
そして、今や半世紀以上が過ぎた。今の代議士たちは、憲法を改めなければいけいないと思っているが、衆参両院で三分の二以上の勢力がなければ、改正案を国民に問うことすらできない。現状と将来を考えた場合、衆参両院で三分の二以上の人が集まって、改正案が提起される日がくるのであろうか。私はそれを考えると、憲法論議はよいとしても、事実問題として、国民に提案される日が簡単にくるとは思えない。
ドイツ人は占領終結と同時に、占領憲法の効力は失われるとの一文を占領憲法に入れた。ドイツ人による憲法をつくるとの気概があったからだ。
しかるに、日本の政治家は、自主憲法制定の気概なく今日に至っている。日本を滅亡させようというアメリカ占領軍の目的は、あと半世紀を待たずに実現するかもしれない。西郷隆盛曰く、「国家は経済によって滅びるにあらず、独立心無きをもって滅びる」。日本人はよほど考えなければならない時期に来ている。

ページ上部へ戻る