先祖・明智光秀から学ぶこと 「上に立つ者の心得」を常に省みよ
明智光秀が築城した坂本城がある大津市の西教寺では、6月14日を光秀の命日とし、毎年法要が行われている。今年も「明智光秀公顕彰会」が主催し、全国の光秀ゆかりの地から、光秀ファンの方々、歴史好きの方々が、会場に入り切れないほど集まり、光秀を偲んだ。来年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、光秀を主人公としており、光秀ゆかりの地では、既にさまざまなイベントが行われている。西教寺は、光秀の菩提寺として、顕彰会の活動も32年目に入り、長く光秀の功績を継承してきた。
光秀が治めた丹波地方の京都府亀岡市や福知山市でも同じように、光秀の評価は高いことを考えると、日本人の思考も、決して横並びということではないのではないかという思いにもかられる。「謀反者」という負のイメージが定説であったが、個々人が、「それは本当なのか」という疑問を持って、さまざまな事象を見るという面も、日本人にはきちんと備わっているのではないかと思うのである。
明智光秀の娘・玉と細川忠興の長男・忠隆の末裔である私にとって、光秀の再評価は喜ばしいことである。「私の先祖 明智光秀」(宝島社)を上梓して3カ月。これまで“政治一色”だった私に、歴史という新たなフィールドが与えられ、その分野の催しに呼ばれることも増えた。
子孫であるということは、それだけでそのような場に存在する意味があるのだとは思うが、政治ジャーナリストとしては、光秀を題材とした仕事をする機会に、どうしても現代の権力構図を考えずにはいられない。「なぜ光秀は、主君・織田信長を討ったのか」ということが、歴史のミステリーといわれているが、それこそが、主従関係を意識するが故の発想であり、現代のあらゆる集団の構図の中にも通じる要素があるということに、多くの人が意識していると思うのである。
織田信長にとっては、まさか側近中の側近の光秀によって、自分の命の終焉を迎えることになろうとは、夢にも思わなかっただろうといわれている。拙著の中で対談した歴史学者・本郷和人氏も、ブラック企業の経営者は、自分のところがブラックだとは思っていないと、その自覚の足りなさを指摘している。信長も、意表を突くように側近に刺されたことは、部下(家臣)の働かせよう(接し方)が、まさに現代のブラック企業に相当するものであったことは、ある程度想像できるのである。
信長・光秀の時代の主従関係の厳格さは、現代のそれ以上であろうが、現代でも、組織の上下関係の厳しさは、ある意味、日本の文化であると言ってもいいだろう。そうであれば、本能寺の変のような出来事、信頼していた部下によって人生を狂わされるようなことも、今の日本でも起こり得ることであると考えなくてはならない。特に、「物を言わない」文化が蔓延する日本社会では、誰からも反感や反対を持たれていないように思われても、実は内心は、相当の反発を抱かれていることもあるということだ。
ある日、突然、信頼していた部下や仲間から“刺されない”ようにするにはどうしたらよいか。答えは簡単である。上に立つ者ほど、いつも自分の行動や考えに間違いはないか、人への配慮が足りなくはないか、自分だけがよいという発想になっていないか、省みることである。逆に、それをしないとどうなるか、シビアに想像してもらいたい。
フジ・ビジネス・アイ「高論卓説」(2019年6月20日掲載)