「デイリースポーツ」1994年5月11日掲載
十日に行われた羽田首相の所信表明演説をテレビで聞いていたが、ついウトウトと居眠りをしてしまった。羽田サンらしく、まさに羽田サンらしく印刷された文章をタンタンと読み上げて行く。抑揚もなければ何もない。ここぞと思うところは、多少は声を高め、そうでないところは低音で読み上げれば居眠りをしないですんだのだが、議場の拍手も今までより少なかった感じだ。普通の人が普通に作文を読んでいた、まさに羽田サンらしい。傍聴席で夫の演説を聞いていた夫人はどんな感想を持たれただろうか。
外交のくだりで〝太平洋戦争〞とか〝わが国の侵略行為や植民地支配〞などの言葉が出てきた。太平洋戦争という表現は果たして日本人にとって適切なものだろうか。この呼称はあくまで極東国際軍事裁判で使われたのが始まりではないか。敗戦後の言葉であると思う。勝者の言葉だ。それまで新聞は〝大東亜戦争〞とよんでいた。
太平洋戦争と大東亜戦争とはどう違うのか。つまり戦争目的が太平洋戦争でははっきりしない。満州事変、支那事変から大東亜戦争となるが、これら一連の事柄について米国のケネス・B・パイル教授は次のように述べている。
- 支那事変で日本は米・英やソ連共産主義の影響を排除したアジアの新秩序を目指した
- そのため蒋介石との全面戦争を避けようとしたが、うまくゆかなかった
- 中国側の抵抗が予想以上に強く日本に誤算があった
- 北方からソ連の脅威が迫り、米太平洋艦隊は増強され、断固たる計画に乗り出した
- 日米戦争の直接のきっかけは米の鉄屑、石油の禁輸という経済政策についで、日本軍の支那からの全面撤退を求めたハル国務長官の所謂ハル・ノートー以上が日本をして戦争に立たしめた理由という。
ハル・ノートを見た時、開戦に反対していた東郷茂徳外相は、ここまで日本を押し込めるならば仕方がないという心境になった。この時の天皇と閣僚の苦悩は、今のような〝平和オンチ〞の政治家や日本人には容易に当時のことを理解することは出来ないだろう。〝日本人の死〞を意味したからだ。
そこで日本は開戦に踏み切るのだが、この点について、軍事法廷で日本無罪論を展開した当時の国際法の泰斗、印度のパール博士は「そこまで大国にいためつけられるならば、ヨーロッパの二万人程度の人口しか持たないリヒテンシュタインでさえも恐らく立ち上がったであろう」と述べている。
また前述のパイル教授は「時に国家と国家が武力を用いなければ解決できないような行き詰まりにぶつかることもある」と述べ、日本の立場を説明している。そうだとすれば一口に〝侵略戦争〞と片付けるのはどうだろうか。