重ねて自主憲法の制定を求める

「産業新潮」2003年9月号所収

 昭和二十年八月十五日に、日本は戦争に負けた。つまり、米英を中心とする連合国の〝降伏せよ〞との命令に従わざるを得なかった。いわゆる、「ポツダム宣言受諾」というやつである。同宣言は、同年七月末に出来上がり、ひそかに日本国政府にも知らされていた。陸海軍、その他の団体などの中には、〝本土決戦をやれ〞、〝ポツダム宣言受諾などまかりならぬ〞という強硬意見や、〝この際はポツダム宣言を受諾して、国民にこれ以上苦しみを与えるな〞など、さまざまな意見が飛び交った。昭和天皇は、御前会議において、〝将来の世界平和を考え、日本民族の苦労をこれ以上増すことは忍びない。したがって、ポツダム宣言を受諾し、戦争を終わらせ、将来の世界平和のために尽くすことが日本人の歩むべき道である〞とのお言葉があり、鈴木貫太郎内閣は、天皇陛下の御意に従い、戦争を終結せしめた。
あの日、国民は八月十五日正午から、玉音放送があるというので、それを待っていた。十二時を過ぎ、初めて聞く天皇陛下のお言葉を、私たち国民は呆然として拝聴したものである。蝉の鳴く、暑い日であった。陸軍の中には、山の中にこもっても米軍と戦うべしという一億玉砕論があったが、天皇陛下のお言葉によって戦争が終結されたことは、やむを得なかったこととしても、よかったことだと私は考えた。幸い、軍の妄動はなかった。しかし、軍人の中には、二重橋の前で、〝日本敗れたり〞と慨嘆し、切腹する者もいた。日本の敗戦の姿は、イラクのようにごたごたすることはなかった。整然たる敗戦と呼んでもいいだろう。
国民はその夜から米軍機の空襲がないことに、ほっと胸をなでおろした。灯火管制もなく、安心して夜を迎えることができた。大都市・東京はもちろんのこと、他の多くの都市も、B29の爆撃によって焼け野原と化した。簡単に言うならば、衣食住にまったく困窮した状況であった。陸海軍、その他の部隊は解隊され、惨めな状況であった。
そういう惨憺たる状況ではあったが、日本人の心の中には、戦争には負けたが、これから新しい日本を作らねばならぬという意気込みに燃えていたことは紛れもない事実であった。とにかく人々は職を求め、必死で働かなければならないという気持ちでいっぱいだった。当時は、フリーターなど一人もいなかった。みな、必死で働いた。
日本人の心は、次のことで理解できるだろう。敗戦後まもなく、全米水上選手権大会に、何人かの日本人選手が招待された。その中の二人、一人は千五百メートルの古橋広之進、も一人は橋爪四郎。二人とも日大水泳部の若き選手であった。両人はいずれからともなく、日本は戦争で負けたが、千五百メートルではアメリカに勝たねばならぬと固く誓い合い、見事にそのとおりになった。両選手は、毎日、一万メートル以上の練習を続けたという。一人が途中でプールから上がろうとしても、他の一人は相変わらず泳ぎ続けるので、お互いに打倒アメリカの精神をもって練習を続けた。その闘志は見上げたものである。
先日の世界水泳選手権で、平泳ぎの百メートル、二百メートルで世界記録を出した北島康介選手の偉業は、大いに評価されてしかるべきである。しかし、あのぐらいのことで、日本人や日本水泳界は喜ぶべきではない。古橋・橋爪両選手の敗戦後の環境は、今日のごとく食料においても、練習方法においても、その他諸般の設備などにおいても、戦勝国アメリカに比較できないほど貧弱な環境であった。たとえば、食料はなかった。今は、一日二千カロリー前後を摂取しているが、五十八年前の日本選手の環境は、芋や豆を主食とするもので、千カロリーもあっただろうか。小皿の上に、豆がパラパラとまかれる程度が一食であったという。両選手とも肉などは食べたことがなかった。そういう貧弱な状況の中で、古橋・橋爪両選手はアメリカにおいて一、二位を独占し、世界の人々をびっくりさせた。その後、両選手はハワイに立ち寄り在留同胞の前で自らの水泳を披露し、やるせない日本人の感情に興奮と自信を植え付けたものである。
戦後の日本人は、古橋・橋爪両選手の大活躍に興奮し、また国家を立て直そうという意気に燃えたものである。しかるに、五十八年経った日本人の心情は、敗戦後の日本人の心情と比べるといささか物足りないものを感ずる。それは何か・・・。
敗戦後は、自分のみの利益を考えることなく、公共のためにいかに考えるか、そして行動するか、いうなれば身を捨てて人のために働くという精神が、一人ひとりの日本人の魂の中に宿っていた。当時の日本の政治家は、社共両党は別として自由党、あるいは民主党などの政党人は、国家をいかに独立国らしく建設するかという課題を常に胸中に蔵していた。
たとえば、吉田、岸、芦田の三首相は、表題において多少の違いはあったとしても、自主憲法の制定、自衛軍備の確立、教育改革について熱心であった。昭和二十九年の衆議院予算委員会で、吉田・芦田論争というのが展開された。民主党の芦田総裁は、自衛軍備の増強とそれにつながる憲法改正について堂々たる質問を展開した。これに対して、吉田首相は憲法改正も自衛軍備の創設にも賛成であるが、経済の再建を第一義に考えなければならない、と芦田さんの意見を認めつつ、経済優先を説いた。しかし根っこの憲法、あるいは自衛軍備については、両者の意見は一致していたように思う。
その後、保守合同が実現し、自民党の政綱として自主憲法の制定、自衛軍備の確立、教育の改革、国際経済への仲間入りなどが確立された。しかるに、約六十年近く経った今日に至るも、何ひとつ改革されていないということは、政治家の怠慢といわざるを得ない。
今日、北朝鮮によって日本人が拉致されるとは、独立国家とはいえない。あるいは靖国神社に首相が参拝すると、周辺国家からガヤガヤ言われる。韓国や中国がどういうところにお参りしているか知らないが、内政干渉を許している日本国家は、独立国家とはいえないのではないか。あるいはまた、日中平和友好条約の中に、「両国はアジアにおいて覇権を求めず」とあるにもかかわらず、彼の国に対する日本の〝平頭外交〞は、独立国とは言えないありさまである。
教育においても、威張る必要はないが、日本人による日本人の歴史が失われているこの様は、これまた独立国とはいえないと言わざるを得ない。独立国家らしからざる現状は嘆かわしいが、その責任は、自主憲法確立を怠っている政治家にある。

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